2016/06/22

開きなさい そうすれば あなたにもわかるだろう・・・

facebookでシェアされていた OSHOの講和から


ある人が
「私は恩寵を受け取った」
と言うのは正しいが、
「あの人は恩寵を受け取った」
と私たちが言うのは間違っている。

私たちは、
またしても自分をごまかしている。
私たちが自分をごまかすのは、
その人に起こった
大いなる変容を認めていないからだ。

自我のせいで、
私たちはそれを認めることができない。
自我は言う。
「神はあの人に
 恩寵を与えておられるのに、
 私には下さらない」
と。

そうなったら、
私たちは、
神は特定の誰かに
恩寵を下さるという
ひじょうに誤った考えを
抱くことになる。
神は恩寵そのものだ。

神は恩寵を
受け取る用意が整った人には
いつも与えている。
神には与える用意がある
ということですらない。
神は常に与えている。

あなたに
受け取る用意ができていないときでさえ、
神は与えている。
あなたが閉じているときでさえ、
神は雨のように降り注いでいる。
神の祝福は雨のように降り注いでいる。
開きなさい、
そうすれば、
あなたにもわかるだろう。
意識して、開いているがいい。
そうして初めて、
愛とは何か、
恩寵とは何か、
慈愛とは何かを知ることができる。

それらはひとつであり、
同じものだ。

それらは別のものではない。
それらは基本的にひとつであり、
同じものだ。
そうして初めて、
祈りが何であるかを知ることができる。
障壁がそこになければ、
祈りとは何かを求めることではなくなる。
それは物乞いではなく、感謝だ。
何かを乞い求めて祈るとき、
そこにはかならず障壁がある。
物乞いは障壁だ。
マインドは障壁だ。

祈りが感謝であれば・・
何かを求めるのではなく、
森羅万象の
すべてに対する感謝であれば・・
恩寵を受け取るたびに、
あなたは感謝を覚える。

神の側からは恩寵が注がれ、
あなたの側から感謝が起こる。
私たちは感謝というものを
まったく知らない。

恩寵を知るまで、
私たちは感謝を知ることができない。
神の恩寵を感じ取るまで、
私たちは感謝を覚えることができない。
だが、
それを知り、
感じ取ることは可能だ。

探究を始めてはいけない。
神に関する詮索を始めてはいけない。
このような探究は
何世紀にもわたって続けられてきた。
哲学者たちは神の属性とは何かと
考えつづけてきた。
「これは神の属性だが、あれは違う」
と言う形而上学者たちがいた。
「神には属性がない・・ニルグナ」
と言う者もいれば、
「神には様々な属性がある・・サグナ」
と言う者もいる。

だが、
自ら体験したことのないものを
どうして知ることができるだろう?
神に属性があるか否か、
神は愛に満ちているか否かを
どうして私たちが判断できるだろう?
そんなことをいくら考えても、
決着はつかない。
判断を下すことなど不可能だ。

形而上学は
私たちを不条理へと導いてゆく。
人間の想像力が論理的になると、
私たちは何かを達成したと思い込むが、
実際には何も達成していない。
想像力は私たちのものであり、
論理は私たちのものだ。
私たちは何ひとつ知らない。

形而上学を避けるつもりなら、
常に自分自身から始めることだ。
形而上学を避けることができなければ、
宗教的にはなれない。
形而上学と宗教は対極だ。

決して神から始めてはいけない。
常に自分のマインドから始めなさい。
自分がいるところ・・
常にそこから始めなさい。

Osho - I Am The Gate


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