2016/07/25

生こそ究極の価値

OSHO:聖なる祝福ーーそして、人は生をそう心得るべきなのだ。
それは測り知れない価値を持った贈り物であり、
人はそれを無駄にすべきではない。
それは成長し、在るための大いなる機会であって、
人はただ押し流さているべきではない。

一銭も払わずにそれを手に入れたために、われわれはそれ無価値だと思い込んでいる。
まるで、それがたいした意味のないものであるかのように生きて行く。

われわれはごくつまらないものごとに、より多くの注意を払う。
大きな家、お金、地位、みんなからの尊敬ーー。

ところがわれわれは、けっして生と、その本質的価値について考えようとしない。
ほかのすべては、生に比べればほんの取るに足らないものでしかない。
だから、最大の祝福はもうすでに起こっているのだ。
生きているということによって、人はもうすでに神から受け容れられるのだ。
もうすでに大変な贈り物をもらっている。
生きているということによって、
あなたはもうすでに<全体>から愛されているのだ。
だからこそあなたは在る。
さもなければあなたなどいなかっただろう。

<全体>は、あなたがいることを望んでいる。
<全体>は、あなたの存在を祝っている。
<全体>は、あなたがいるということを喜んでいるのだ。
だから、絶対に何かを生以上のものとして考えてはならない。
ーーほかのあらゆるものは、生以下にすぎないのだ。
生こそ究極の価値なのだ。
あらゆるものは、生のためになら犠牲にされ得る。

しかし、生はいかなるもののためにも犠牲になどされ得ない。
人びとは無価値なものごとのために生を犠牲にすることを教え込まれてきた。
お金のために、自分の生を犠牲にする。
尊敬のために自分の生を犠牲にする。
名誉のために自分の生を犠牲にする。
政治のために、キリスト教のために、ヒンズー教のために、
いわゆる宗教のために自分の生を犠牲にするーー。
人びとはびた一文のために生を犠牲にすることを教え込まれてきた。
何が何でもとにかく自分の人生を犠牲にしろーー。

しかし生こそ究極の価値なのだ。
あらゆるのもは生の犠牲にされ得る。
が、生は何ものの犠牲にもされ得ない。
あらゆるものは生の犠牲にされ得る。
が、生は何ものの犠牲にもされ得ない。
なぜならば、生こそ神だからだ。


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